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中国の劇
中国には伝統劇が合わせて三百余種もあり、そのうち、ほとんどは地方芝居である。全国で比較的大きな影響を持つものとして、京劇、評劇、越劇、豫劇、粤劇などがある。そのうち影響力が最大なのは、二百年の歴史を持つ京劇である。
中国の伝統劇は長い形成と発展の過程において、絶えず音楽、踊り、絵画、寄席演芸、武術などから養分を吸収し、芝居を主とする民族の特色を持つ独自の総合的芸術を形成するに至った。
芝居は大昔の歌と踊りをルーツとしたものである。大昔の歌と踊りはほとんどが天、祖先、神を祭る儀式で行われる歌や踊りおよび豊作、狩り、戦いでの勝利を祝う時に行われる娯楽としての歌と踊りであった。史書によると、春秋戦国期に諸侯と貴族に娯楽を提供する「倡優」(歌と踊りを演じる人)、「俳優」など専門の芸人が現われた。歌と踊り、演奏、寄席演芸、手品と角抵(見世物の一種)を含む「百劇」が前漢の時代に形成され、宮廷と民間でもよく見られるようになり、そのうち、角抵劇は後世の演劇の性格をもつものとなった。唐代に入ってから、これまでのいろいろな芝居を基礎として歌と踊りからなる芝居や参軍劇が現われた。それは歌、踊り、動作とセリフで物語の内容を表現するものである。
雑劇と院本は宋と金の時代に現われたものである。とくに指摘しなければならないのは、福建、浙江の一帯に現われた南劇は基本的に完ぺきな形に近い演劇の形式をもつに至ったことである。このほか、宋の時代の大都市に現われた雑劇を含む百戯雑技が長年にわたって演じられた場所は、以後の劇場と娯楽場の前身というべきものであった。
元の時代は雑劇芸術のピーク期であり、多くの優れた演目と何人かの優れた劇作家が現われた。
明の時代に入ってから、伝奇劇が日増しに栄え、だんだんと雑劇に取って代わった。その時、伝奇劇を演じる地方劇はいろいろあり、声腔(調子と拍子のこと)と称され、例えば昆山腔、海塩腔、弋(よく)腔などがそれである。
清の時代になると、戯曲はさらに盛んになり、日増しに地方化して、高腔、昆腔、秦腔、ほう子、二簧、西皮(以上は伴奏のリズムの分類)などさまざまな声腔を形成した。清代の中期には、北京の安徽一座が二簧腔と湖北の西皮腔を溶け合わせるとともに、その他の声腔を吸収して新しい皮簧腔を形成させた。つまり現在の京劇の前身である。その他の声腔は発展と推移を経てついに現在のさまざまな地方劇を形成するに至った。
中国の演劇はその長い発展過程において、ユニークな民族的風格を形成し、世界のその他の演劇とはっきりした違いをもつものとなった。
中国の伝統劇は今でも多くの人々に喜ばれているばかりではなく、国に重視され、サポートされている。1949年に入ってから、中国の伝統劇はこの上ない発展を遂げ、劇団は合わせて1573、劇団員は86083人、そのうち、京劇団は130、劇団員は10854人に達した。1997年には、中国の各種の伝統的演劇団は合わせて254000回も公演活動を行い、観客は延べ350000000人に達した。
大都市では、中国の伝統劇は現代の生活のテンポの加速とテレビ?映画の影響を受けて、一部の若い観客が離れていったが、広大な農村では何千何万の観客と愛好者を擁している。伝統劇の影響を保ち、強化するため、中国では伝統的演劇祭、京劇祭およびその愛好者たちが劇の一節だけを演じるイベントが時折催され、各種の伝統的戯曲の学校は政府の助成の下で、引き続き伝統劇の俳優を育成している。青少年俳優の成長を促し、伝統劇の青少年に対する影響を広げるために、時には梅花賞コンクール、チビっ子の京劇•昆曲コンクールも開催されている。
京 劇
京劇は中国の伝統的な古典演劇である戯曲の一つ。清朝に安徽省で発祥した。京劇は360種以上も数えられるという伝統的な地方劇のうちに、北京地方で大成したところからこの名―京劇を付けた。今ではペキンオペラの名でも世界中に知られている。
京劇はほかの多くの伝統劇種と同じく、歌、セリフ、しぐさ、立ち回りにより構成される独特の様式を持ち、特に歌唱が重視され、俳優のことを「劇歌い」、観劇のことを「聴劇」とも言う。脚本は元曲(げんきょく)、伝説などに比べて文学性が高いとは言えず、むしろ上演用の台本というべきで、現在の台本の中で作者が多い。元曲や伝説の改作のほか『三国志』の部分脚本が特に多い。
京劇は常に一枚の幕の前の舞台で上演される。道具は紅塗の机といすのみ、それに積み上げて山や岩を表したり、各種の旗や屏風(びょうぶ)で場面を表現する。伴奏音楽は、胡弓(こうきゅう)が歌のメロディを主導し、銅鑼や太鼓が見得や立ち回りのリズムを刻む。使用されるメロディは20曲余りであるが、内容に応じてリズム、テンポの工夫が凝らされる。衣装は明朝(みんちょう)の服装をもとにした華美なもので、色や模様で身分や職業を表す。京劇はもともと男優のみであるが、近代以降は女優も多くなってきた。
京劇の楽器
京劇の楽器類は大きく分けて、弦楽器、管楽器、打楽器、その他の4種類に分けられる。
1.弦楽器類
京胡
京胡は今から二百年前、京劇と一緒に地方から北京にやってきた楽器であり、京劇で最も重要な地位をしめる擦弦楽器(さつげんがっき)である。弦楽器でありながら笛のように途切れない音を出すことができる。また共鳴胴に膜(蛇の皮)が張ってあるため、バイオリンよりもさらにいっそう、人間の声に近い声を出すことができる。
京胡はもともと一種類であったが、現在では、やや小型の「西皮用」タイプと、やや大きめの「二黄用」タイプ、およびその中間型の汎用(はんよう)タイプの3種類がある。
昔は、京劇の一流の名優は、自分だけの専属の琴師、つまり京胡弾きをかかえていた。京劇のうたは、役者と琴師が作ってきたといっても過言ではない。
月琴
京胡の次に重要な地位をしめる、撥弦楽器(はつげんがっき)である。月琴は京劇や京胡よりも古い歴史を持つ楽器で、京劇以外の伝統音楽でも広く使われている。
京胡および歌唱者(俳優)の声が飴のように伸びるのに対して、月琴の音はピアノのようにポツポツきれる。
月琴は基本的に一種類であるが、張る弦の数(糸巻きの数)、フレットの位置(半音までびっしりはめこむか、全音階だけにするか)、胴体内部に金属片やバネなどの共鳴材を入れるか否か、など、演奏者のコンセプトによって形態をいろいろ変えることができる。
京二胡
京胡と月琴に次いで重要な弦楽器である。京胡より一オクターブ低い、バイオリンのような音色である。ただし京胡ほどの音量は出ない。
この楽器の歴史はあさく、名優•梅蘭芳(メイランファン)の京劇改革期のとき、それまで高音域に偏していた京劇音楽を是正するため、導入された楽器である。
三弦
日本の三味線のルーツにあたる楽器である。
月琴より音を間引いて弾けるので、ここぞと思うところでリズムを強調することができる。また三弦が合奏に加わることで、音に暖かみが加わる。
中阮
西洋のギターのような、よく響く澄んだ低音を発す。中阮の原形である「阮咸」は非常に古い楽器である。中阮は中国各地の伝統音楽で広く使われている楽器であるが、京劇には比較的新しく採用された楽器である。
京劇音楽の弱点である低音域を補う。また、西洋音楽の「ベース」同様の効果をもたらす。
大阮
中阮を更に大型化した、より低音の撥弦楽器である。
秦琴
もともと京劇以外の民間伝統音楽で使用されていた楽器である。京劇音楽でもそれほど普及している訳ではなく、一部の劇団の楽隊で人数に余裕のある時に採用されるくらいである。
2.管楽器類
笛子
竹製の中国式フルート。劇音楽用のものを特に「曲笛」とも言う。本来、昆曲など京劇以外の地方劇で使われる楽器であるが、京劇でも演目によっては昆曲の旋律を使う場合などに使用される。
嗩吶
京劇では、曲笛同様、昆曲の旋律を吹くときに使われる。また、合戦の場面、雁や馬の鳴き声などの描写に効果音的に使用される。
ちなみに中国の日常生活では、伝統的な結婚式や葬式のときにこのスオナーが大活躍している。
海笛子
小型のラッパ。華やかなチャルメラなどにくらべると、京劇音楽ではあまり目立たない存在である。
笙
中国の楽器にしては珍しく、単旋律演奏よりも和音演奏(ただし西洋の和音とは音の組み合わせが違う)を重視した作りになっている。京劇では、昆曲の旋律を演奏するときに使用される。
3.打楽器類
京劇音楽は「文場」と「武場」に分けられる。上述の旋律系楽器による演奏が「文場」と呼ばれるのに対して、以下の打楽器群による打撃音楽は「武場」と呼ばれる。
京劇における打楽器は非常に重要で、風の音、水の音はもとより、本来耳で聞くことのできない暗闇のようなものすら打楽器で表現される(昔は照明施設など無かったので、闇も音で表現した)。
打楽器の中で最も重要なのは、檀板、単皮鼓の二つで、併せて「鼓板」と呼ばる。これらは、西洋音楽の指揮者にあたる「司鼓」(「鼓師」とも)が一人で演奏する。
次に重要なのは金属製の打楽器群で、大鑼--大きなドラ、鐃鈸--にょうばち、小鑼--小さなドラなど、楽隊員がひとり一種類ずつ分担して持ち、司鼓にあわせて演奏する。
打楽器の演奏にも伝統的な厳密な型が存在する。京劇で常用されるリズムパターンは約60種類で、その1種ずつに「急急風」「四撃頭」「紐糸」「水底魚」など名前がつけられている。これらは、主要登場人物の登場、立ち回りの場面など、場面によって使用される型がだいたい決まっている。
その他、堂鼓も、曲目によって演奏に加えられる。
そのほか 西洋楽器、電子楽器など
現代京劇では、中国在来の伝統楽器群と一緒に西洋の管弦楽を演奏に加えるようになった。また最近は、伝統演目の場合でも、効果音としてシンセサイザーや電子キーボードを楽隊に加える場合がある。
旧来の伝統楽器と電子機器を組み合わせることも、今では普通になっている。例えば、大阮など低音弦楽器にPU(ピックアップ)を付けるのは、普通に行われている。
評 劇
評劇はもともと「平腔梆子戯」といい、俗称は「唐山落子」や「(足崩)(足崩)戯」と呼ばれている。100年ほど前に、河北省唐山一帯で形が出来上がった。評劇の元になっている「蓮花落」は歴史の古い民間の伝統戯劇芸術で、伝わっていた地域もかなり広く、万里の長城の内外に行き渡っていた。
蓮花落は貧しい旅芸人が演じていた。縁起の良い物語や昔話を謡いあげるもので、祝い事の時に踊る「秧歌」や影絵の「皮影」、民間楽器など様々な要素を吸収して形成されてゆいた。もともとは芸人が竹の板を楽器代わりに使って1人で歌っていて、清朝末期にはお祭りや市の日にあちこちで見ることができた。また、村落を巡回して演じられていた。その後は徐々に2~3人で歌うようになり、また敵•味方役を2人が演じて簡単な伴奏が入るようになっていった。
芸人たちは貧しさを克服して身分を得るため、蓮花落を工夫して磨きをかけ、だんだんと芸術の域にまで高めてゆいた。中でも著名な芸
評劇
人の成兆は民間の伝統芸術を吸収してアレンジし、村々を巡回するうちに弟子も増え、叙事的な表現や代言的なセリフなど生活に密着した演目を開発して農民たちの人気を集めた。
1908年にはセミプロの蓮花落劇団が複数立ち上げられ、役者の幅も広がり、京劇に見られる「老生(中年以上の宰相や学者)」「老旦(老婦人)」「青衣(貴婦人)」といった固定キャストや決まったセリフも出来上がった。舞台に上がる人数が多くなると、差別化をはかる意味で衣装やくまどりにも変化が生まれた。
1909年、蓮花落はさらに発展して各劇団も数十人規模の大劇団になった。成兆が率いる劇団「慶春班」が永平府(現在の河北省秦皇島市盧龍県)で行った。興行は大反響をよび、府政府に自由な公演を認められた。これをきっかけに、蓮花落は各地の政府でお墨付きをもらい、発展に勢いをつけた。
1915年、慶春班は天津で「老媽開口傍」「馬寡婦開店」「花為媒」など20数種類の大型興行を行い、当時の演芸界で高い評価を受けた。慶春班は1917年に「京東永盛合班」と改名し、唐山と天津を行ったりきたりして公演するようになった。翌年には河北省山海関でも公演を行い、同じく大劇団の「警世戯社」も東北3省で巡演し、黄金時代を築き上げた。
「平腔梆子戯」と呼ばれるようになった蓮花落は1918年、唐山で実を結んだ。独自の脚本を作り、独特の歌謡法や伴奏で基本的な評劇の形が出来上がった。
警世戯社が東北で名声を上げたあと、北京や天津に雨後のタケノコのように沢山の劇団が誕生した。また、芙蓉花、劉翠霞、白玉霜、小桂花といった若い女優が人気を呼び、その名声は全国に響き渡った。
新中国誕生後の1949年、空前の繁栄を見せていた評劇は政治的な要素も受けて新たな形に生まれ変わり、1980年代以降も優秀な後継者を生んでいる。
誕生してからおよそ100年の評劇は、芸人たちの苦労が実を結ぶかたちで民間芸能から芸術へと生まれ変わった。今も発展を続ける評劇は、多くの人たちから依然大きな支持を受けている。
越 劇
中国二大戯曲劇のひとつと呼ばれる越劇は、今年で100歳を迎える。京劇が高雅で気品ただよう劇とすれば、越劇は江南地方の珠玉である。心を打つ伝説を一つ一つ人々に語りかけることで、いつのまにか1世紀の時間を過ごしてきた。
越劇は重要な地方戯曲のひとつで、浙江•嵊州地方の方言と民間音楽を起源としている。紹劇、京劇、昆曲、舞台劇などの要素を取り入れ、独特の芸術性と影響力をはぐくんで、一般大衆に広く浸透し愛されている。
越劇の誕生は1906年3月27日と言われている。男性俳優が嵊州•東王村の舞台で演じたのが始まりで、1917年に「小歌班」と呼ばれる男性俳優らが初めて上海で公演を行い、上海での基礎を築いてゆいた。
1923年には女性役者の養成も始まり、女子越劇の発展はここから始まった。その後、浙江各地でつぎつぎ女性の名役者が誕生し、越劇は女優が主流になってゆいた。
1920年代から40年代まで、多くの越劇女優が上海に入って劇団を作った。中でも袁雪芬が作った「雪声越劇団」は演出に大胆な試みを用いて人気をよび、最終的に13の流派を生んだ。1946年、袁雪芬が主演した「祥林嫂」が大ヒットし、越劇の現実主義路線に記念碑を打ち立った。1947年に袁雪芬始め尹桂芳、范瑞娟、徐玉蘭、傅全香、竺水招、筱丹桂、張桂鳳、呉小楼、徐天紅の10人が「越劇十姉妹」として、連名のもとに演じた「山河恋」は、越劇の歴史に残る演出となった。
新中国誕生後、越劇は最盛期を迎えた。それまでの女性だけではなく、男性も混じった謡合わせ手法も演じられるようになった。浙江や上海だけではなく、江蘇、福建など多くの都市で公演され、上海越劇院が創作した「紅楼夢」や「梁山伯与祝英台」など優秀な作品が広く演じられるようになった。
改革開放後は、越劇にも多くのアレンジが加えられるようになった。1984年、浙江省では浙江小百花越劇団が立ち上げられ、茅威涛など優秀な女優や顧錫東、楊小青など優れたプロデューサーが集まり、「五女拜寿」、「陸游与唐琬」などの新しい演出が生まれた。これは、「小百花現象」と呼ばれている。
黄 梅 戯
黄梅戯はもともと「黄梅調」または「采茶戯」と呼ばれ、18世紀後半に安徽、湖北、江西の3省が接する地域で形作られた一種の民間芸能である。そのうちの一派が徐々に東の安徽省懐寧県を中心とする安慶地区へと移動し、現地の民間芸能と結びついて歌やセリフも現地の言葉が使われるようになり、自らの特徴である「懐腔」あるいは「懐調」が出来上がってきた。これが現在の黄梅戯の前身である。
19世紀半ばには、「青陽腔」と「徽調」の影響を受け、戯劇として形づくられた。そして黄梅戯は戯劇の一種として、だんだんと世間に知られるようになってゆいた。初期の黄梅戯の表現方法は歌と踊りを同時に使ったもので、ありのままの日常生活の情景を重点的に取りこみ、特に決まった形式はなかった。黄梅戯は主に「花腔」と「平詞」の2つに分けられる。「花腔」は主に寸劇を指し、生活のいぶき豊かで素朴な味わいが特徴である。「平詞」は節回しを指し、大きな立ち回りの叙述に使う。
黄梅戯の歴史はそれほど古くなく、大枠が出来上がったのは20世紀の始めである。発展を見せたのは、新中国成立以降のことになる。半世紀という短い期間に、黄梅戯の発展は3回も転機を迎えた。
1回目は清の乾隆末期から辛亥革命時期である。当初の歌と踊りから「両小戯」と「三小戯」に発展し、その後は現地で流行していた「羅漢桩」という歌謡芸術を吸収して、舞台劇としての体裁を整えてゆいた。またこの時期は演目も増え、長編が36本、短編が72本まで増えた。長編は農村で働く人たちの生活を描き、表現方法は打楽器のみを使い歌って踊るものであった。この時期の黄梅戯は、基本的に農民たちが自ら歌って楽しむ程度のものであった。
2回目は辛亥革命から1949年までである。黄梅戯は職業化し、農村の掘っ立て舞台から都会の劇場へと発展した。1926年、著名な役者の丁永泉、曹增祥、丁和寿が安慶市に入り、最初は分散して無伴奏で歌っていたが、名声が高くなると同時に固定した場所で上演し、営業性の演出も始まった。
3回目は中華人民共和国成立後である。黄梅戯は急速に発展し、安慶地区の民間芸能から安徽省全体の地方劇として拡大した。1953年には安徽省黄梅戯劇団が作られ、ベテラン役者と新人が力を合わせてこれまでの歩みを整理、再編し、今に伝わる優秀な作品も出来上がった。この中の幾つかは映画化されて親しまれている。現在、黄梅戯の劇団は50を数え、その柔らかな謡いと繊細な表現で国内でも特に人気の高い戯劇の一つになっている。
1950年代から60年代初め、厳鳳英や王少舫が代表となって伝統的な演目の「天仙配」や「女駙馬」を演じ、これをきっかけに黄梅戯は民間の小さな芸術から影響力の強い戯曲芸術へと成長した。また80年代末から90年代にかけて、馬蘭や黄新徳といった新たに頭角を表してきた役者がフィルム作品で活躍するようになった。
20世紀末、黄梅戯は政策の支持を得るとともに、これまで各年代で積み重ねられた改革や努力を基盤としてさらに発展の可能性を広げた。舞台だけではなく、フィルム作品、音楽作品、著作物など様々なスタイルで、人々をとりこにしている。
秦 腔
中国の戯劇は大きく分けて、発祥が東南のものと西北のものの2種類があru。西北の戯劇は、主に秦腔とされている。秦腔は中国でも最古の演劇の一つで、西北地域の優秀な文化を代表するものである。歴史が古くて地域の特色を色濃く残し、一般民衆の間に浸透している。
秦腔は乱弾とも呼ばれ、起源は西秦腔である。西北部の陕西を始め甘粛、青海、寧夏、新疆などで流行し、ナツメの木で作った梆子(拍子木)を使うため、甘粛では「梆子腔」という呼び方もある。甘粛の古地名は「西秦」であったので、秦腔の名称もここから来ている。清朝の康熙帝の時代が最も発展•成熟した時期であった。乾隆年間には北京でも上演され、またたくまに都中の話題になった。各地で育った梆子声腔に直接影響を与える存在になった。
秦腔は節回しとリズムで変化をつける。節回しには「歓音」と「苦音」の2種類があり、前者は喜びや嬉しさ、後者は悲憤や沈んだ情感を表現し、劇中のムードや人物によって選びわけられる。板式と呼ばれるリズムには慢板、二六、代板、起板、尖板、滚板、花腔などがあり非常に豊富である。演奏に使うメイン楽器は胡弓の一種「板胡」で、とがった高い音が出る。秦腔の表現法は質朴で荒さと細かさが融合し、情感も豊かで見る人をグッと引き付ける。
役柄は大きく「四生(男性)」、「六旦(女性)」、「二净(荒々しい男性)」、「一丑(道化役)」の計13個に分かれている。辛亥革命後、西安で秦腔をメインに演じる「易俗社」という劇団が設立され、京劇を始め各種戯劇の要素を取り入れた改革を行った。節回しも、高く激昂した調子から柔和で優しい調子まで細かくアレンジし、元々の秦腔を基盤に新たな格調を生み出した。秦腔の深みのある謡いは陕西人の感情の奥底を表現したものである。
秦腔の起源は古代の陕西や甘粛一帯にあった民間の歌舞踊である。この一帯は古代中国において、政治•経済•文化の中心であった場所で、歴代の芸術家たちが民間の芸能をだんだんと発展させた。秦腔が流行したそれぞれの場所によって、違った流派も生まれた。西安一帯のものが秦腔と呼ばれたほか、関中東部渭南地区の大荔や蒲城近辺のものは東路秦腔、関中西部宝鶏地区の鳳翔•岐山•隴県や甘粛省天水一帯のものは西路秦腔、漢中地区の洋県•城固•漢中•沔県一帯のものは漢調恍恍とされた。
うち、西路秦腔は四川に入って梆子になり、東路秦腔は山西に入ったものが晋劇、河南に入ったものは豫劇へと発展し、秦腔は京劇を始め各地の有名な戯劇のベースになった。
秦腔の演目は、現在数えてみると約3000にもなる。「列国」「三国」「楊家将」「岳飛」など英雄物語や悲劇、神話、民間の昔話などジャンルもたくさんである。古典的な秦腔は2005年、2つの大きなニュースをきっかけに注目を集めた。一つは蘭州市が「中国秦腔発展都市」に指定されたこと、もう一つは陕西省が秦腔を無形文化財に指定したことで、中国で初めて国家レベルでの無形文化遺産保護目録に組み入れられたことによるものである。
川 劇
川劇の起こりは前秦もしくはもっと以前に遡ることができる。両漢時代の「角抵百戯」が川劇の基礎で、三国時期、四川一帯に登場した風刺喜劇「忿争」が川劇喜劇の始祖とされている。
唐、五代時期は、川劇が最初に発展を見せた時代である。この時期、中国の戯曲史上初及び最古の戯班(劇団)が誕生し、わずか5人で構成されたものであった。
現在、川劇と呼ばれるものは、明代の「川戯」が起源と言える。明代、四川一帯では既に地方劇が流行しており、「花部戯」の発展と共に外から昆腔•高腔•梆子腔•皮簧腔なども流れ込み、さらにもともと現地にあった「灯戯」も融合され、現在の川劇の雛形が生まれた。声腔が流行した地域や継承方法の違いから、早期の川劇は4つの川の流れにそって川西•資陽•川北•下川東など異なる流派を生み出した。川劇の特徴は生活に基づいた題材の表現で、繊細でユーモアに溢れ、地方色豊かなものである。特に、托挙•開慧眼•変臉•鉆火圈•藏刀といった民間芸能を上手に用いて、登場人物の性格を細かく描写して伝統的な演目も非常に豊富である。
清代になって、川劇は昆曲、高腔、胡琴、弾戯、灯戯といった5種類の声腔と組み合わされ、四川を始め雲南、貴州で流行していた。清末期にはこれらの声腔と共同演出するなど新たな局面を迎え、劇自体の面目を一新した。その後、川劇は改良の動きが盛んになり、「戯曲改良公会」が成立し、資金を集めて「悦来茶園(現在の錦江劇場)」や「蜀劇部」といった上演用舞台も作られた。さらに、川劇役者らが集まって1912年に「三慶会」が結成され、康子林•楊素蘭•蕭楷臣の役者を筆頭に、300名あまりの精鋭たちが集結した。また優秀な劇作家も登場し、趙熙の「情探」や黄吉安の「三尽忠」、「柴市節」などが人気を呼び、演目の種類も700あまりまで増えた。
20世紀に入ってからも、劉懐叙を筆頭に川劇作家が現代的な作品を次々発表したが、時代の暗い波にのまれ、川劇自身が衰退の道を歩まざるを得なかった。新中国成立後、政府の支持を受けて盛り返しを見せた川劇は、まさに「黄金時代」に突入してゆいた。
川劇変面⇒
川劇で使用されるドラは、川劇音楽の中で非常に重要な役割を担っている。また、小鼓、堂鼓(大きめの鼓)、大鑼(大ドラ)、小鑼(小ドラ)、大鈸(シンバル風)の5つは総称が「五方」で、弦楽器とチャルメラを加えて「六方」となる。演奏には、小鼓が音頭をとる。
川劇の表現は現実主義の伝統を持ち続け、人々の日常生活を描きながらも独特の美を具現化している。台本は文学的価値も高く、ユーモアに溢れ、その現実的さから多くの人に愛されてきた。舞台で変幻自在に演じられる開慧眼や変臉といった妙技も、魅力の一つになっている。
二 人 轉
二人轉は「(足崩)(足崩)」とも呼ばれている。東北地方で人気がある地方色豊かな民間芸能で、300年以上の歴史を持っている。
二人轉は、昼間に「秧歌(祝い事の時の歌•ダンス」を歌っていた芸人が、夜になって東北の民謡を歌ったものが始まり、その後は各地方の文化の伝達などを通じ、長い時間をかけて拡大•浸透し、基礎を作った。東北秧歌や民謡をベースに、民間の笑い話や民間芸能を取り入れ、形を変えていった。このため、表現スタイルや節回しが非常に豊富である。民間に広まった「寧舎一頓飯、不舎二人轉(ご飯よりも二人轉)」の言葉どおり、民衆の中に深く浸透している。
二人轉の起源と流行した場所は東北3省で、300年以上の歴史を持っている。しかし、明朝末期の社会の混乱及び戦乱が原因で記載されている文献も少なく、民間に伝わってきたというだけで長い間に、具体的な検証がされなかった。ある文献には、清の道光2年(1822年)に吉林省懐徳県八家子老爺廟(普済寺)の縁日で「(足崩)(足崩)が演じられた」との記載がある。早期の二人轉では女性役者は存在せず、男性が女性役を演じていた。
中華人民共和国成立後、二人轉という名前がやっと世間に広まった。1955年頃からは女性役者も増え、男性役者が女装する時代が終わった。60年代、二人轉は舞台芸術として発展を見せ、演目の内容や種類も大きな発展を見せた。伴奏や衣装も豊富になり、ダンスや美術も取り入れられ、使用する小道具なども大きく変わった。古典的な演目にも手を加えたので、従来の泥臭さや俗っぽさが取り除かれ、「健康的でユーモアにあふれた優秀な伝統演芸」として生まれ変わった。
改革開放後、二人轉はどんどん進化を遂げ、伴奏の楽器も楊琴、琵琶を始め、武場鼓などが加わり、小道具にも花傘やシルク布が登場した。さらに照明のレベルアップなど、総合的な芸術性の進歩も見られた。
二人轉の演出形式には、盛り場を始め広い建物で歌う「唱大車店」を始め「唱秧歌会」、「唱茶社」、「唱屯場」など色々な種類があるが、最もポピュラーなものは「唱屯場」で、毎年秋の農閑期や冬場に広く行われるものもこれに含まれる。
舞台に上がるとまず「打通」、つまり太鼓を3回鳴らして観衆の注目を引く。続いて丑角(道化役)が舞台に上がって旦角(女性役)を招きだし、2人で踊るのが「三場舞」である。旦角が下がったあと、丑角が「喊詩頭」を続ける。「詩頭」の多くは本筋とは関係のなく、会場を静かにさせるためのものである。そして再び旦角が現れ、丑角に「説口」つまりセリフを投げかける。これは会場で即興で話したり日常の笑い話を語るもので、続いてメインの「唱小帽」や「唱正文」に移る。
二人轉の演出方法は大きく3つに分かれ、①2人が道化と女性で掛け合いを行い、歌いながら話したり踊ったりするのは最も基本的な二人轉、②1人だけで歌いながら踊る方法、③複数の役者がいろいろな役柄を演じ踊る「拉場戯」、となっている。
長い年月にわたって東北の庶民に愛されてきた二人轉は、分かりやすいセリフと溢れるユーモアで、親しみやすさを伝えている。
昆 劇
昆劇はかつて「昆山腔」(略して「昆腔」という)、「昆調」、「昆曲」、「南曲」、「南音」、「雅部」などとも呼ばれていた。一般的に言えば、芝居の節回しの部分は主に昆山腔と呼び、演奏、とりわけ舞台を離れた時の清唱(扮装やしぐさをせずに、歌だけの部分)は主に、昆曲と呼ばれた。「昆劇」は表現芸術としての演劇を表現する時の総称である。
昆劇は明の隆慶、万暦時代から、清の嘉慶初年(1570-1800)まで、230年余りにわたって興隆し、中国の演劇界への強い影響力を持っていた。これは昆劇が最も輝かしく、最も成果を上げていた時期でもあり、それは素晴らしい繁栄ぶりだった。当時、新作劇も相次いで送り出され、その芸術性が日増しに成熟し、役者の役柄分担も益々細分化していった。公演形態から見れば、長編の伝奇ものから単独の一幕の劇(折子劇)が現れてきた。「折子劇」は本編から独立した短編劇で、まとまりのない場面は削られ、面白いくだりを重点的に充実させた、生き生きとした芸術性で、昆曲の発展に新しい息吹をもたらした。ここから「生」、「旦」、「浄」、「丑」などの役柄の演技を中心に、観衆が何度見ても飽きを感じさせない「応工劇」の名作が生まれた。
昆曲の演目は大変豊富で、脚本が優雅で美しく、文学性が高い。脚本を読むだけでも、多くの唄いの文句は婉曲で深みのある詩歌そのもので、美しさの享楽である。明と清の時代において、音声を主体とする演劇の中で、昆曲は最も多くの作家と作品を有する芸術だった。その発声と発音は中国語の四声を重んじ、形式、韻律、拍子をかたく守り、唄い方はまろやかで美しい上、抑揚があり、緩やかである。昆曲の調子は中国古典文学の中の「曲牌体」を採用し、すべての演目はみな一連の「曲牌」からなっている。昆曲は完備した表現システムがあり、その演じ方は強い舞踊性を持ち、また、歌とも密接に結びついているため、歌、舞踊、台詞、動作を一体にした総合的な芸術形態である。中国における演劇の文学、音楽、舞踊、美術及び演じ方のしぐさ、型、伴奏のつけ方など、いずれも昆曲の発展過程で成熟し、改善されたものである。
昆曲の成長はつまり、中国の演劇の成長過程であり、それは京劇、川劇、湘劇、越劇、黄梅劇など多くの演劇の形成と発展に直接的な影響を与えた。これが人々が昆劇を「百劇の元祖」と呼ぶ理由でもある。
豫 劇
豫劇は河南省最大の地方劇で、京劇と並ぶ中国の古典演劇の一つ。セリフや歌詞は京劇に比べて聞き取りやすいという。
豫劇は明の末期から清の初めに生まれ、初期は伴奏としぐさのない歌がメインで、農民から深く愛好され著しい発展を遂げた。豫劇の起源は定かではなく定説はないが、明の末の秦腔と蒲州薯克qが河南に伝わった後、地元の民謡と小唄を結びつけてから形成された説と北曲弦索節から直接発展してできたという説とがある。
豫劇が形成された後、主として4つの流派が現れた。開封周辺の祥符節、商丘周辺の豫東節(東路節とも言う)、洛陽周辺の豫西節(又は西府節もしくは靠山簧)及び諸?河周辺の沙河節(又は本地薯香jである。歌い方は主として慢板、二八板、流水、飛板などに別けられる。主な流派は豫東節と豫西節に別けられ、豫東節の男声部は甲高く、激越で、女声部は元気が良く躍動に富み、喜劇的な表現に長けている。豫西節の男性部は荒涼としていて、悲壮感があり、女声部は徘徊していて、玉を転がすようで耳に心地よく、悲劇に長けている。
主な伴奏楽器は板胡、二胡、三弦、琵琶、笛、笙、ソーナーなどがある。
豫劇は歌を特徴とし、物語の重要な場面になると、往々にして長めの歌で表現し、独特な芸術的な魅力がある。豫劇のスタイルは先ず、情熱と奔放な男らしさに富み、気勢が雄大な場面の表現に長け、強大な感情の度合いを持っていることに現れる。その次は地方の特色が濃く、質朴で分かりやすく、本来の姿が保たれた農民の生活に近い。そして、リズムが鮮明で、強烈で、矛盾や衝突が激しく、ストーリーがよくまとまっていて、キャラクターの個性がはっきりとしている。
粤 劇
粤劇は、中国広東地域の地方劇の一つである。劇中の歌は、きらびやかな衣装で着飾った役者たちが広東語で歌われている。
粤劇は深く広東人にだけではなく、雲南と広西の人にも香港及びマカオ同士にも、海外華人にも好まれて、中国での最も早く世界に発展した劇種なのである。粤劇の産生と形成について話して、広く意見を分けて、一致していないのである。しかし、粤劇は明代中から萌芽し初めて、本地班に孕まれたと考えられている。史料によると、およそ明代嘉慶から万歴年間まで本地班は既に佛山でも広州でも琼花会館のような専門職構成を確立したのである。絶えず発展の結果、だんだん広東化の江西弋陽調、江浙昆調で歌った梆黄が主体になったひとつ劇種なのである。こういう劇種は実際に弋陽調が広東本地で流行した南音、ドラゴンのボート、木魚、粤讴、咸水歌などの民間曲調と広東器楽曲と結合上がってなってきたので、清代後民国初に至るまで、次第に南北、中外唱法の音楽と広州語での演唱を融合し合ってなってきたのである。従って、鮮明な嶺南特色を持っている粤劇という地方演劇を形成してきた。粤劇があるために他の地域の戯曲と異なっている独特なところは中国の書意派閥の演劇の部門に属するし、軽快で流暢な、新しい様式で変わりやすい特性をもっていて「南国の红豆」と呼ばれる。ここにみなさんに特別に紹介すべきのは、最初に、全国のある地方劇種の中で、粤劇は最も早く国外で表演し、国外に発展した。
粤劇は広州をセンタ-にして広東省内の都市及び田舎、香港及びマカオ地域、広西、雲南で流行するだけではなく、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカにまでも広がっていくのである。